俺が初めて彼女にあったのは雨の日だった。
それから彼女は雨が降るとここに現れた。
だから俺は雨が降るとここに来ることにした。

「葉山先輩、今日呑みに行きませんか?」
俺が帰り支度をしていると後ろから声をかけられた。この課に俺の後輩は一人しか居ないので、呼ばれてすぐに誰か分かった。
「わるい、赤島、今日は無理なんだ。もうすぐ雨が降りそうだし、今日は早めに帰れよ」
俺はそう言って鞄を持ち上げる。中には雑多な資料が山ほど入っている。
「葉山先輩って雨が降る日いつも急いでいますよね。洗濯物でも干しているんですか?」
赤島はそう言って頬を膨らます。その仕草は彼女をとても幼く見せる。
「まあそんなとこだ。雨の日にしか出来ない仕事があるからな」
俺は足早にデスクを離れる。今にも雨が降りそうで、早く行かないと間に合いそうに無い。
「葉山、これ頼めるか?」
帰ろうとしていた俺を一つの太い声が止めた。
その声の主はこの課の主である青村先輩だった。先輩の言うことは絶対なのでこの頼めるかはやれという意味だ。
「・・・分かりました」
そう言って俺は青村先輩から資料を受け取った。明らかに時間のかかりそうなデスクワークだった。
「明日までにやってくれ。じゃあな」
そう言って青村先輩はレインコートの襟を立て、部屋を出て行った。帰るなら自分でやってくれよ。
「・・・では私も帰ります。さよなら〜」
赤島も足早に部屋を去っていった。確かにこの時間にここに残る物好きは居ないだろう。
「・・・はぁ」
俺は諦めてデスクに座った。雨はもう間に合わず、窓に雨が当たる音が広い部屋に染み渡っていった。

「ごめん、待ったか?」
俺はそう言いながら彼女の元に駆け寄る。結局あの後二時間みっちり仕事をした。
「いいえ、もともと待ち合わせなんてしていなかったわ」
彼女は傘を持っていない方の手で髪を後ろに投げる。この仕草をするときの彼女は何かを思いつめている時だ。
「それに、遅れたからどうという事でもないのでしょう。早く始めましょう」
そう言って彼女はバス停のベンチに座る。ベンチの上に屋根があったので、ベンチは濡れていない。バスはもうここを通らない時間だ。
「じゃあ早速始めるね。いつもの様に力を抜いて」
俺は彼女の正面に立ち、右手を彼女の顔に向ける。彼女は慣れたように目を瞑り、肩から力を抜く。そしてガクンと首が一度落ちる。
「今君はとてもリラックスしている。そう、その調子でゆっくり思い出して」
俺は一定のトーンで話しかける。彼女はそれによってゆっくりと意識が朦朧としていくはずだ。
「さあ、じゃあ思い出して欲しいんだ」
俺はそこで言葉を切り、やさしい口調で先を続けた。
「一番最近殺したのはいつだい」

「またやられました!これで十四人目です」
赤島が勢い良く扉を開け、部屋に飛び込むなりそう叫んだ。青村先輩は悔しそうに暴言を吐き、デスクを蹴った。俺も苦虫を噛みつぶしたような顔を作った。
「都内の交差点に面した道路にて発見されました。被害者の身元は現在捜索中、おそらく男性と思われます。死因は判別不能、凶器は不明、遺体の回収終わりましたが、やはり今までのように・・・」
「・・・少ない・・・か」
赤島の報告を聞き、青村先輩が不機嫌そうにまたデスクを蹴った。俺は今聞いたことをそのままパソコンに打ち込んだ。
「血が洗い流されていない様子から、犯行は昨夜雨が止んでから行われたものと推測されます。遺体の損傷具合、犯行手口などから、今回も同一犯と思われます」
赤島はそこまで言うと、俺の隣のデスクに座った。顔色が悪く、今にも倒れそうだったので、俺はデスクの上に置いてあった栄養剤を渡した。
「ホシの手がかりは何かあったか?」
青村先輩が聞いた。青村先輩も赤島を休ませたいが、仕事なので仕方が無く、聞いているのだ。
「・・・ありません。犯人の指紋も採取できる状況ではありませんでした。」
赤島も仕事なので仕方なく、無理して答える。
「わかった。赤島、お前はここで待機、俺と葉山はこれから遺体の確認に向かう」
「ありがとうございます」
赤島は軽く一礼して、奥の応接間兼休憩室に向かった。おそらく倒れるだろう。
「行くぞ葉山。吐かない様にしろよ」
「はい」
俺は鞄に必要最低限の荷物を入れ、デスクを離れた。青村先輩は既に部屋から出て行っていた。
「こんなことをするやつを、許すわけにはいかねぇ」
青村先輩に追いついたとき、先輩がそう毒づいた。俺は何も言わずにいた。言えなかった。
何故なら、俺は犯人を知っているからだ。

「俺が3つ数えたら目が覚めるよ、1、2、3、はい、おはよう」
俺がそう言うと、彼女はぱちと瞳を開けた。彼女の瞳は紅く、燃えるような色だった。
「どうだった?」
彼女は目覚めた途端にそう聞いた。俺はゆっくりした口調で「大丈夫だよ」と答えた。
「いいえ、大丈夫なはず無いわ。私最近おかしいもの」
彼女はそう言って髪を後ろに投げた。その仕草は見ているだけならとてもかわいらしかった。
「最近記憶が途切れる回数が多くなっているの、それに、気がつくと手が血だらけだったり、口から血の匂いがしたり、服が血だらけあったこともあるわ、それにそれに・・」
「落ち着いて、ゆっくり、深呼吸して、それだけなら今までだってあっただろう。回数が増えてもその間何をしているかはわからない、そうだろう」
俺は彼女の肩をつかみ、落ち着かせる。彼女の体は小刻みに震え、冷えている。
「それだけじゃないの・・わたし・・・わたし・・・」
彼女はそこで俺の目を見た。俺は彼女の目を真っ直ぐに見る。
「人を見ておいしそうって思ったの」

「特捜課の方が来てくれるとは思っていませんでした」
そう言って死体所の人は俺達を案内した。
「帰るときはそこのチャイムを押してください、私どもが鍵をかけに参りますので」
そう言ってそいつはドアの前から消えた。俺達は何の戸惑いも無くドアを開けた。
「やぁ、青村、それに葉山君か」
中には血と肉の嫌な匂いと、それが好きな手術者がいた。
「やっぱり君達の担当かい。さっき本署の人が来ていたけど、そこの廊下に吐いていってね、まったく、育てがなっていないねぇ」
俺と先輩は何も言わず彼の横に立つ、彼は大野という、死体が好きで人殺しに成りかけるが、死体解剖という天職に就いた人だ。そして青村先輩の同輩だ。
「状況はどうだ。何か出たか?」
「いいや、何も。出たには出たけど、聞くかい?本署の奴は笑っていたけど」
「言ってくれ」
先輩がそう言うと、大野の顔がマスクの上から分かるほど微笑んでいた。
「この死体ね、これに限らないけど最近のやつは、食われているね」
「その話は前にも聞いた」
「そうさばさばしないで、人の話は最後まで聞きなって」
そう言って大野は、目の前にある死体、いや、肉片を説明しだした。
「まずこの首、ここの首筋を噛み切られているね。多分これが一撃目。そして次にこの右腕、ここのところ、歯形があるだろ、ここに噛み付いた。そしてこの肩、これは引き千切っているね。んで下半身だけど、これはひどいね、ほとんどミンチ、つま先はほとんど残っていないから、肉のつき方で左右見ているけど、ほとんど分からないね。これだけのパーツをよく集めたよ。警察の奴吐きまくりだったらしいよ」
大野は死体を指しながら、うきうきと、説明した。
「そうか、わかった」
青村先輩はそう言ってタバコを取り出した。その動作を見て大野が「禁煙」と一言言った。
「わかった。何か手がかりがあれば連絡してくれ」
そう言って青村先輩は歩き出した。俺も後を続く。
「葉山君吐かなくなったな、偉いぞ」
俺は大野を無視して部屋を出た。タバコを吸いながら外へ向かった。

「それは仕方が無いって前にも言ったろう」
俺は子供をなだめる様な口調でそう言う。彼女の肩はまだ震えていた。
「違うの!前よりも酷くなっているの。それに、生きる為の量は薬で採っているのに、何で、何で私だけ・・・」
彼女の瞳から涙が落ちる。それは透明で、紅い瞳からそれが落ちるのはとても変に見えた。
「大丈夫だよ。それは成長期の一環だよ、そう本に書いていただろう。ホラ顔を上げて、角を見せてごらん」
俺はポケットからハンカチを出し、彼女の頬を拭った。そして彼女の目元をハンカチで拭い、前髪を掻き分ける。彼女は少し抵抗する仕草を見せたが、俺はかまわず彼女の前髪を後ろに持っていく。
そこには、額と髪の境目には、小さな突起が出ていた。

「傷跡や状況から見て、ホシは絶対鬼ですね。さもなくばよっぽど高性能の機械とか」
部屋に戻ってミーティングを始めると、やはりそういう意見が出た。
「でも鬼はもう人を襲わないだろう。それは条例でも決まっているし、DNA操作で鬼の遺伝子なんて殆ど消えている。仮に鬼にそんな力があっても、もう鬼は人を食べなくなっている。そんなことする必要はない」
俺は毎回のようにこの言い訳をする。事実鬼は既にその力を失っており、人を食べたくなってもそれを薬で抑えることが出来る。
「しかしそれも例外がある・・・だな」
青村先輩が毎回のようにそう言う。そう、例外だってもちろんある。むしろ無いほうがおかしいのだ。
「一昨年にも同様の事件がありました。被害者は四人でしたが、その時も食い散らかした様になっていました。数日後犯人は自首、自分で自分が抑えられないと証言しています」
赤島が毎回のようにそう言う。俺もその事件のことは知っている。その後犯人が死刑になったことも。
「どちらにせよ鬼の居留地は既に調べてある。DNA検査もした。そのような行動に走る前兆の見えるものは例外なく病院にて再検査、そして薬による治療を施した。もう鬼から犯人を見つけるのは困難だ」
俺はそう言う。この言い訳が苦しいこともわかっているが、事実なのも知っている。
「・・・葉山、お前何か言うことないか」
青村先輩が真剣な目でこちらを見つめる。俺は手のひらに汗を感じながら答える。
「鬼はすべて当たりました。もう考えられるのは高性能ロボットの方だと」
「そのことなんだがよ、すまないが調べさせた。赤島、だせ」
青村先輩は俺の話を途中で割り込み、赤島に命令した。赤島は俺に申し訳なさそうにひとつの資料を出した。
「ここには鬼のデータが載ってある。何のデータか分かるか?ここ最近で行方不明になった鬼のデータだ。その中のものはまだ検査していない、そうだな」
青村先輩はそう言って俺の目を睨む。俺は必死に目を逸らすまいと、目を睨み返す。
「確かに行方不明者に限ってはDNA検査はしていません。しかし彼らのデータはありますし」
「そんなデータ、生まれた時の物しかねぇんだろ。だがそのデータも大事だ。何せそれがなければ俺はお前をこんなに睨んだりはしないんだからな」
俺は睨まれたままカエルのように動けなくなった。その俺を見て先輩は赤島にファイルを出すよう指示する。赤山はおれの方を伺いながら、先輩にファイルを渡す。
「このファイルには、俺らの服や体皮、持ち物から採取したDNAの検査結果が入っている。その中に一人だけ、こっちのファイルのDNAと同じものが検出されている。わかるな、葉山」
当然俺にもわかった。つまり俺の持ち物から行方不明者の、否、彼女のDNAが採取されたのだろう。いつなのか、彼女が俺の服に触れたのかもしれない。俺が彼女に触れたのかもしれない。しかし結果として俺が彼女とあっていたのがばれたのだ。
「・・・彼女は・・・治るんです」
俺は必死にそう言った。俺の声は震えていた。その俺の声を聞いて、赤島は驚いて口元を手で覆った。
「・・・すまない葉山、俺は今お前を引っ掛けた。俺はお前の持ち物を調べる時間なんてなかった。だから引っ掛けた。昨日お前が居ない間に赤島にもやった。赤島は白だった。こんな結果は望んでいなかったが」
先輩は椅子からゆっくりと立ち上がり俺の前に来た。よく考えれば俺は一日中鞄を持ち歩いている。無論トイレなどに行くことはあっても、DNA検査はそんな短時間で出来るものではない。俺は先輩にはめられたのだ。
「葉山、今聞いたことは忘れる。俺は信用できる部下を失いたくない。だからその鬼の居場所を教えてくれ。お前はそれでここにいられる」
先輩が俺の肩をつかんでそう言う。もう時刻は夕暮れで、先輩の背中から紅い光が差し込んでいた。
「すみません先輩、俺を牢屋にぶち込んでください。彼女のことは言えません」
俺はうなだれて、震えた声でそう答えた。
「・・・わかった。お前の最近の行動からそいつの居場所を割り出す。見つかるのは時間の問題だぞ。それでもいいんだな」
先輩は俺を見ながらそういった。その声には何処か悲しさが含まれていた。
「はい。かまいません」
俺は迷いなくそう答えた。しばらく待つと俺を連行する為のパトカーが来て、俺はそれに乗せられた。

「大丈夫だ。俺が上手くやっている間は絶対捕まらない。お前を死なせるものか」
俺は彼女の肩をつかみながら言う。彼女の額には小さいながらも立派な角が二本しっかりと生えていた。それは彼女の完全な鬼人化を教えてくれていた。
「でも、もうだめよ。自首するわ。そうすればあなたにも迷惑はかからない。私はあなたに苦労をかけさせたくないの」
彼女は涙目で、しかしはっきりした口調でそう俺に伝えた。
「俺はどうなったっていい。だから最後に、一番最後でいいから、お前と暮らしたいんだ。だから自首するとか言わないでくれ」
俺も涙目だった。泣いていたかもしれない。しかしそれを恥ずかしいとは思わなかった。
「私と一緒に居たら、私があなたを・・・食べて・・しまうかもしれないわ」
彼女は紅い瞳で俺にそう言う。彼女の瞳からは溢れ出るように涙が出る。
「大丈夫さ。きみは水に弱い、だから雨の日は自我を保てる。なら湖の傍に暮らそう。一年中雨の地域でもいい。君と暮らせるならなんだってする。だから、今は我慢してくれ」
俺は願うように彼女に言う。彼女の泣いている目をハンカチで拭ってやる。彼女の涙は美しく、それがハンカチに吸い込まれるたびに残念な気持ちになる。
「わかった。あなたが言いというまで私は我慢する。だから、早く。早く私を連れて行って」
彼女はそう言ってハンカチを握る俺の手を掴んだ。俺はその手を強く握り返し、大丈夫だよと囁く。

パトカーが建物を離れ、大通りで信号待ちをしている時、俺は動いた。
最初に手錠を繋がれた手で銃を奪った。隣の奴の銃のホルスターは近くにあり、奪ってそいつを撃ち殺すのに一瞬とかからなかった。
次に反対の奴を撃ち殺した。車の両側面の窓が血で染まり、外から事態が見えなくなった。
運転席のやつの首筋に横から銃を立てる。そいつは命乞いをしたが俺は戸惑いなく撃った。
車の中に死体が三つと逃走犯が一つ出来上がった。空からはそれを見ていたように涙が流れ出した。
俺は隣の奴のベルトから、鍵を奪い手錠を外した。そして運転席に座っているものを助手席に移し、運転席に回りこむ。座席はまだ暖かかった。
俺は全員を横から撃ったので、横の窓はすべて血で見えなくなっていた。しかしフロントガラスはその殆どが見えており、運転するのに不自由は無かった。
後ろからクラクションの音がした。前を見ると信号が青に変わっていた。俺はアクセルを踏み込み、ボタンを入れてサイレンを回す。
空からの激しい雨にウインカーを最も早い速度に設定する。今日の天気予報が通り雨を知らせていたのを思い出す。彼女に間に合いたい、そして一緒に遠くに逃げたい。そう思った。

「おそらく雨の日のみその女性に会えたのだと思います」
赤島がそう言う。彼女の仕事はいつでも確実なのでその推測は正しいだろう。
「よし、じゃあ俺達もそこへ向かうぞ。銃を忘れるな。出来れば拘束だが、身の危険を感じたら撃て、発砲を許可する」
俺は赤島を連れて部屋を出る。廊下でエレベータのボタンを押し、待っている時、赤島の携帯がなる。彼女は真面目な声でその相手と話をする。電話の通話口を押さえ俺にその内容を伝える。
「葉山先輩・・いえ、共犯者を護送中のパトカーがまだ到着しない模様です。無線にも出ません。何かの事件性を感じ私達に連絡したと」
「わかった、こちらで確保すると伝えろ。おそらく俺達と目的地は同じだ」
彼女は神妙な顔つきで頷くと、電話の相手に手短にその旨を伝えた。
エレベータで下に下り、車に乗り込んだ時に赤島が聞いた。
「葉山せんぱ・・共犯者を見つけた場合どうすればいいですか」
「無論拘束だ。しかし身の危険を感じたり、容疑者に協力するようであれば撃ってもかまわん。責任は俺が取る」
赤島が何も言わずに車を出す。サイレンを鳴り響かせ大通りを突き抜ける。既に夕焼けは姿を消し、夜の静寂が訪れようとしていた。雨の音がその静寂を何とか抑えていた。

「ごめん、また遅れた」
俺はパトカーから出るなりそう言った。パトカーはバス停の前に止めたが、もう止まるバスも無いので、まったく問題ないだろう。
「あなた・・・血の匂いがする」
そう言われて俺は自分の姿を見た。街頭の下に晒される俺の姿は血まみれだった。
「ごめん、君を隠し通せなかった。もうここにはいられない、君も、俺も」
俺は彼女に一歩近づく、それに合わせて彼女は一歩後ろへ下がった、彼女が街頭の光から抜けたので彼女は真っ黒な影になった。
「駄目、今私に近づかないで。雨が降っているけど、血の匂いがこんなにしたら、私我慢できないかもしれない」
彼女はそう言ってもう一歩下がる。表紙にバス停の屋根から出てしまい、雨に打たれている。しかし屋根の下に戻る気配はない。
「分かった、じゃあ俺は雨で血を落とす。だから君は屋根の下に入ってくれ。血が落ちたら一緒に何処かへ行こう。外国にでも行こう。そうすればずっと一緒に居られる」
俺は屋根から外れ、雨の中へと身を投げる。雨は冷たく、俺の服を強く打っていく。
「駄目、あなた、人を殺したのでしょ。わかったでしょう、私の気持ちが、自首しましょう。私は殺されるかも知れないけど、あなたは死なずに済むかもしれないわ」
彼女はそう言って一歩前に出た。彼女の姿が街頭によって現れる。彼女もまた、血まみれだった。
「私さっき気がついたとき、殺している最中だったの、食べていたところよ。想像できるかしら、気がついたら人を殺して食べていた。そして私の口の中にはその人の内臓が入っていたのよ。私はそれをおいしいと感じたわ。もう駄目なのよ。私は治らない。あなたと一緒には・・行けないわ」
彼女はそう言うと紅い瞳から涙を流した。ぼろぼろと、彼女の涙は雨の当たらない屋根の下に落ちていった。
「大丈夫だ、絶対治る、治してみせるから」
俺は血の付いた上着を脱ぎ捨てて彼女へと近づく。彼女の頭から出ている角に気づいた。既に十センチほどの長さに成長している。
「来ないで、私はあなたを食べたくないの」
彼女は一歩下がりまた闇の中に消えた。俺は彼女の影をただ見ていた。俺の体は冷え切っていったが、それ以上に俺の心が不安で凍りついた。
俺達は街頭を背負い雨に当たっていた。彼女のいる闇と、俺のいる光の間には無限の闇が横たわっていた。

「雨、止みそうですね・・・」
赤島は誰にいうともなくそう呟いた。この車の中には俺と赤島しかいないので、それは俺に向けられた言葉なのだろう。
フロントガラスに当たる雨粒も、その勢いがさっきよりも減っていた。
「もうすぐパトカーの発信機の位置です」
「拳銃を用意、最初の一発の空砲も必要ない。ホルスターから抜いておけ」
赤島は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに顔を引き締めて銃を取り出す。弾はもちろんすべて実弾だ。
車のヘッドライトが久しぶりにコンクリート以外のものを映し出した。バス停の前に止まったパトカーだった。

俺たちは必死に走った。
雨が弱まってきたことを体で感じた瞬間、俺達は何も言わずに走り出した。
彼女が自我を保てるのは水のある時だけだ。雨がもっとも効率がいいのだが、それ以外なら大量の水があるところ、川や海などが理想的だ。
俺達は一番近い川に向かって走っている。歩道は狭く、コンクリートの車道を走っているが、車が多く通る道ではないので轢かれる心配もない。
しばらく走ると前方に橋が見えた。橋があるから無論川もある。間に合った。俺はそう思った。
「あ、だめ、だめ!離れて!」
突然彼女が立ち止まった。彼女の言った意味を理解出来なかったが、それも体に雨粒の刺激を感じないことに気づくまでだった。

パトカーを見つけた地点を見渡すと、血の痕があった。おそらく葉山の衣服に付いていたものだろう。それが道の先へ続いていたのでそちらに車を走らせた。
赤島も既に何も言わない。パトカーの中を見れば葉山がどういう決意で今の行動に至ったかおのずと分かったのだろう。鬼と関係を持つと不幸な目にあう、そういう教訓を聞いたことがあるが、まさかほんとにそうなるとは思っていなかった。
しばらく車内は無言だった。フロントガラスに当たる雨音すら消えていた。その無言を断ち切ったのは車の急ブレーキと、道の真ん中に現れた葉山の姿だった。

彼女は一人でそこに立っていた。もう俺の存在も関係ない。間に合わなかったのだ。空の雨雲も晴れ、切り取ったような月と無数の星が彼女を支えていた。
俺の後ろから声がする。先輩と赤島の声だ。
もう何年も聞いていなかったように思える。今も俺の耳に聞こえているかも怪しい。
二人が銃を持っていた。それを彼女に向ける。誰だってそうするだろう。彼女は既に人の姿をやめていた。
雨が止み立ち止った瞬間彼女は苦しみだした。俺は近づけなかった。彼女は全身を掻き毟った。その過程で服は破け、全身の皮膚が入れ替わり、その体型すらも変わった。
彼女の細く折れてしまいそうな四肢は、人を殺す為に、破壊の為だけの姿になった。
爪は長く伸び、それはもう刃物だった。
足は瞬く間に形を変え、人のそれより獣のような形をしている。
彼女の支えたくなるような細い首は、その美しく溢れる水のような印象を与える顔を支える為でなく、醜く憎しみしか映さない顔を固定する太く強靭なものになった。
彼女の流れるような長い髪は、その醜く変化した体にかかるただの毛でしかなくなった。
そして、彼女の一番高いところに、それが、角が生えていた。長さは30センチはあろうというその角は、禍々しく伸び、悪魔のそれに似ていた。
「あぁ・・・」
俺は泣いていた。彼女はもういなくなったのだ。彼女は遂に鬼になったのだ。
彼女が雄叫びを挙げてこちらを見た。その瞬間左右から爆音が聞こえてくる。それがピストルの音だと気づいたのは彼女の体から血が吹き出てからだ。
「やめろぉぉ!」
俺は無意識のうちに彼女の元へ走っていった。
銃声が止み、俺は彼女の元に辿り着く。
彼女の醜く変化した顔が俺を見る。瞳の色は以前と同じ紅色だった。
「ごめん、間に合わなかった・・・」
俺は涙を流しながらそう言った。何処から出てくるのか、涙は異常なほどに流れ出ていた。
「ゴメ・・ンネ・・・・」
彼女の醜く濁った声が俺にそういう。その言葉に俺は彼女に抱きつく。以前のような柔らかさはなく、刃物も跳ね返すような硬い感触だけがあった。
彼女が身を捻った。それは捻ったのが目的でなく、その腕の動きに体が連動したのだ。
彼女の右腕が俺の胴体を激しく突き飛ばす。
俺はただ真っ直ぐに飛んでいった。彼女の意識があったのか、その力はあまりに弱く、俺は5メートルほど飛んだところで止まった。
彼女への銃撃が開始された。
しかし彼女はそんなものをもろともせずに、銃の雨に入っていく。すべての弾は急所を捉えているが、深くは届かない。彼女が一歩ずつ先輩達と距離を詰める。
俺は必死で立ち上がる。呼吸が上手くいかない、肋骨が折れているのだろう。死んでいないだけ奇跡だ。
「ならもう一度だけ奇跡を起こせよ・・・」
俺は走り出す。実際は歩いているかも知れないが、俺の頭では必死に走っていた。
彼女の腕が上から振り落とされる。先輩達がそれを間一髪でかわすのが見えた。
「こっちを見ろぉ!」
俺はあらん限りの声を出す。俺は泣いていた。
彼女がこっちを振り向く。彼女も泣いている。
俺は彼女に銃を向ける。手が震えていた。俺が撃たなくても彼女は近づいてきた。ゆっくりと、一歩ずつ。
俺と彼女の距離が1メートルほどになる。
彼女が両腕で俺を持ち上げる。俺の体は空気のように簡単に持ち上がった。
彼女は泣いている。その紅い瞳から透明の液体が道を作っている。
「ごめんな・・助けられなくて・・・」
俺は真っ直ぐに彼女を狙う。手の震えは止まらない。
「イイヨ・・・コロシテ・・・」
彼女の醜い声がそういった。その瞬間俺の手の震えが止まった。
俺は真っ直ぐに銃を構え引き金を引いた。彼女の紅い瞳から入った銃弾が彼女の命を奪っていった。

「怪我は治ったのか?」
先輩が俺に聞く。怪我から既に2週間が経っていた。俺の怪我は肋骨が4本折れているだけと、以外に軽いものだった。
「関係ないでしょう、あんまし」
俺がそういうと先輩は中途半端な笑みを浮かべた。
「赤島は来ないんですか?」
「あいつはいやだとさ」
俺は中途半端な笑みで頷いた。
俺はもうあの部屋には戻れない。犯人を知っていながら見逃した。それに警官を3人も殺している。先輩に会うのも今日が最後だ。
「しかしお前、何で捕まえなかった?鬼にそんなに思い入れがあったのか?」
先輩が聞いてきた。おそらくこれを聞くために今日来たのだろう。
「彼女は特殊でしてね、もともと病院にいたんです。それでもあの病気が治らなくて、殺されるのが怖くて抜け出したらしいんですけど、偶然にも彼女には弱点があったんです」
俺はそこで間を置いて話を続けた。
「彼女は水に弱かったんです。理由は知りませんが、雨の日や水の中では、正気を保てたんです。だから俺は彼女を助けたかった、それだけです」
俺がそういうと先輩は鼻で笑って立ち上がった。
「もう帰るんですか?」
「あぁ、誰かの所為で仕事が増えたんでね」
先輩はゆっくりとした動作でタバコを取り出す。
「あ、一本くれませんか?最後に吸いたいです」
俺がそういうと先輩は何も言わずに一本を取り出し、ライターと共に看守に渡した。看守は俺の口にそれをくわえさせ、火をつける。煙を肺の中に入れ、吐き出す。胸の中に不快感が溜まり、俺はタバコを落とした。
「やっぱりまずいです」
俺が笑って見せると先輩は鼻で笑い背中を見せた。そのまま何も言わずに部屋を出る。
「看守さんすいません、捨てておいてください。俺は用事があるんで」
俺がそういうと別の看守が二人俺の横に来た。
俺は彼らに連れて行かれる形で道を歩く。その道はとても冷たく静かだった。
廊下の途中で他の部屋に入った。そこには口ひげを生やした偉そうな人がいて、俺に椅子に座ったままこう聞いた。
「何か言い残すことはないかね」
俺はしばらく悩んでこう答えた。
「さっき来ていた俺の上司に、元上司にタバコおいしかったですって言っておいてくれませんか?」
その男は分かった、と答えて俺を外へ促した。
俺は彼に一礼し、部屋を出る。そこからは廊下を進むだけだった。その先に目的の扉があった。
「ごめんな、今からいくから」
俺はそう呟き死刑台に向かった。